田村昇士のブログ

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有島武郎 親子

 二時を過ぎて三時に近いと思われるころ、父の寝床のほうからかすかな鼾が漏れ始めた。彼はそれを聞きすましてそっと厠に立った。縁板があしうらに吸いつくかと思われるように寒い晩になっていた。高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたててこわれ落ちそうにえ切っていた。
 将来の仕事も生活もどうなってゆくかわからないような彼は、この冴えに冴えた秋の夜の底にひたりながら、言いようのない孤独に攻めつけられてしまった。
 物音に驚いて眼をさました時には、父はもう隣の部屋で茶をすすっているらしかった。その朝も晴れ切った朝だった。彼が起き上がって縁に出ると、それをうかがっていたように内儀おかみさんが出て来て、忙しくぐるりの雨戸を開け放った。新鮮な朝の空気と共に、田園に特有な生き生きとした匂いが部屋じゅうにみなぎった。父は捨てどころにこうじて口の中にふくんでいた梅干の種を勢いよくグーズベリーの繁みに放りなげた。
 監督は矢部の出迎えに出かけて留守だったが、父の膝許ひざもとには、もうたくさんの帳簿や書類が雑然と開きならべられてあった。
 待つほどもなく矢部という人が事務所に着いた。彼ははじめてその人を見たのだった。想像していたのとはまるで違って、四十恰好かっこうの肥った眇眼すがめの男だった。はきはきと物慣れてはいるが、浮薄でもなく、わかるところは気持ちよくわかるたちらしかった。彼と差し向かいだった時とは反対に、父はその人に対してことのほか快活だった。部屋の中の空気が昨夜とはすっかり変わってしまった。