田村昇士のブログ

田村昇士のブログです

有島武郎 親子

 五、六丁線路を伝って、ちょっとした切崕きりざしを上がるとそこは農場の構えの中になっていた。まだ収穫を終わらない大豆畑すらも、枯れた株だけが立ち続いていた。まだえのしたかたくなな雑草の見える場所を除いては、紫色に黒ずんで一面に地膚をさらけていた。そして一か所、作物の殻を焼く煙が重く立ち昇り、ここかしこには暗い影になって一人二人の農夫がまだ働き続けていた。彼は小作小屋の前を通るごとに、気をつけて中をのぞいて見た。何処どこの小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火いろりびだけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびしく立っていた。
 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどのけわしい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見わきみもせずに足にまかせてそのあとに[#「足へん+徙」、173-12]い て行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた。負けじ魂の老人だけに、自分の体力の衰えに神経をいら立 たせていた瞬間だったのに相違ない。しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法がしゃくにさわったのだ。

有島武郎 親子

 彼は、秋になり切った空の様子をガラス窓越しに眺めていた。
 みずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓りんかくを描いて白く光るあの夏の雲の姿はもう見られなかった。薄濁った形のくずれたのが、狂うようにささくれだって、澄み切った青空のここかしこにたむろしていた。年の老いつつあるのが明らかに思い知られた。彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。
「もう着くぞ」
 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服のえりが首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。
 停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩としかさ小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草たばこ道具と背負いなわとを腰にぶら下げていた。短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。
 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。
 物の枯れてゆくにおいが空気の底によどんで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。

伊藤野枝 転機

 と思い出したように教えてくれる。もとは、この土地に住んでいた村民の一人だというその男は、この情ないような居村の跡に対しても、別段に何の感じもそ そられないような無神経な顔をして、ずっと前にこの土地の問題が世間にかれこれいわれた時のことなどをポツリポツリ話しているのであった。そして、それも かつての自分達のことを話しているというよりは、まるで他人の身の上の事でも話しているような無関心な態度を、私は不思議な気持で見ていた。彼は惨苦のう ちにこの土地に未練をもって、今もなお池の中に住んでいる少数の人達に対しても、冷淡な侮蔑を躊躇なく現わすのであった。
「ずっと向うにちょっとした木立がありますね。ええずっと遠くの方に、今煙が見えるでしょう? あの少し左へよった処に、やはり木の茂った処が見えますね、あれがSの家です。まだ大分ありますよ。」
 指さされた遙かな方に、ようやくのことで小さな木立が見出された。細い貧し気な煙も見える。私と山岡が、今尋ねて行こうとしている人達の住居はそこなの だった。連れの男は折々立ち止まっては、おくれる私達を待つようにして、一言二言話しかけてはまた先にずんずん歩いていく。道に添うて、先刻はただ一と目 に広く大きいままに見た景色の中につつまれた、小さな一つ一つのみじめな景色が順々にむき出しにされて私達を迎える。いつか土手に添うた畑地はなくなっ て、土手のすぐ下の沿岸の、疎らになった葦間に、みすぼらしい小舟がつなぎもせずに乗り捨ててあったり、破れた舟が置きざりにされてあると見てゆくうち に、人の背丈の半ばにも及ばないような低い、竹とむしろでようやくに小屋の形をしたものが、腐れかかって残っていたりする、長い堤防は人気のない沼の中を うねり曲って、どこまでも続いている。
 山岡は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人のだれかれがこの村のために働いた話をしながら歩いていく。

伊藤野枝 転機

「本当にね。ずいぶんひどい荒れ方だわ。こんなにもなるものですかねえ。」
「ああ、なるだろうね、もうずいぶん長い間の事だから。しかし、こんなにひどくなっていようとは思わなかったね。なんでも、ここは実にいい土地だったんだ そうだよ。田でも畑でも肥料などは施らなくても、普通より多く収穫があるくらいだった、というからね。ごらん、そら、そこらの土を見たって、真黒ないい土 らしいじゃないか。」
「そういえばそうね。」
 私は土手を匐うように低く生えた笹の葉の緑色を珍らしく見ながらそういった。この先の見透しもつかないような広い土地――今はこうして枯れ葦に領された この広い土地――に、かつてはどれだけの生きものがはぐくまれたであろう。人も草木も鳥も虫もすべての者が。だが、今はそれ等のすべてが奪われてしまった のだ。そして土地は衰え果ててもとのままに横たわっている。
「なぜこのように広い、その豊饒な土地をこんなに惨めに殺したものだろう?」
 もとのままの土地ならば、この広い土地いっぱいに、春が来れば菜の花が咲きこぼれるのであろう。麦も青く芽ぐむに相違ない。秋になれば稲の穂が豊かな実 りを見せるに相違ない。そうしてすべての生きものは、しあわせな朝夕をこの土地で送れるのだ。それだのに、何故、その豊かな土地を、わざわざ多くの金をか けて、人手を借りて、こんな廃地にしなければならなかったのだろう?
 それは、私がこの土地のことについての話を聞いた最初に持った疑問であった。そして、私はその疑問に対する多くの答を聞いている。しかし現在この広い土地を見ては、やはり、そのような答えよりも最初の疑問がまず頭をもたげ出すのであった。
 歩いていく土手の道の内側の処々に、土手と並んで僅かな畑がある。先に歩いていく男は振り返りながら、
「こういう処はもと人家のあった跡なのですよ。」

伊藤野枝 転機

 そういったなりで、後の言葉がつづかなかった。ひどい! という言葉も、私が今一度に感じた複雑な感じのほんの隅っこの切れっぱしにすぎないとしか思え ないような、不満な思いがするのであった。冬ではあるが、それでも、こうして立っている足元から前に拡がったこの広大な地に、目の届く処にせめて、一本の 生々とした木なり草なり生えてでもいることか、ただもう生気を失って風にもまれる枯れ葦ばかり、虫一匹生きていそうなけはいさえもない。ましてこの沼地の どこに人が住んでいるのだなどと思えよう?
 案内役になった連れの男はさっさと歩いていく。どこをどう行くのかも分らずに、ついていくのに不安を感じては私は聞いた。
「谷中の人達の住んでいる処まではまだよほどあるのですか?」
「そうですね、この土手をずっとゆくのです。一里か一里半もありますかね。」
 道は幅も広く平らだった。しかし、この道をもう一里半も歩かなければならないということは私にはかなり思いがけもないつらいことだった。ことに帰りもあ るのに、この人里離れた処では乗物などの便宜のないというわかり切ったことがむやみに心細くなりだした。それでもこの雪もよいの寒空に自分から進んで、山 岡までも引っぱって出かけて来ておいて、まさかそのようなことまでも、口へ出してはいいかねて黙って歩いた。
「こうして見ると広い土地だね、荒れていることもずいぶん荒れてるけれど、これで人が住んでいた村のあとだとはちょっと思えないね。」

伊藤野枝 転機

 彼はさも、何でもないことを大げさに信じている私達を笑うように、また私達をそう信じさせる村民に反感をもってでもいるように、苦い顔をしていい切ると、またスタスタ先になって歩き出した。
 いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防に私達は近づいていた。
「あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。」
「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。」
 二人はやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少しおくれて歩きながら、そんな話をした。
「これがずっと元の谷中です。」
 土手に上がった時、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指していった。


 それは何という荒涼とした景色だったろう! 遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、 ただ一面の茫漠とした沼地であった。重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆わ れて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。右を向いても左を向いても、同じような葦の黄褐色が目も遙かに続いているばかり、うねり曲って左右に続 く堤防の上の道さえ、どこまで延びているのか、遂にはやはり同じ黄褐色の中に見分けもつかなくなってしまう。振り返れば来る来る歩いて来た道も、堤から一 二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間にかくされている。その道に沿うてただ一叢二叢僅かに聳えた木立が、そこのみが人里近いこと を思わす[#「思わす」は底本では「思わず」]だけで、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な心持を誘われるのであった。
 古河の町をはずれて、高い堤防の上から谷中村かと思われる沼地の中の道に踏み入ろうとして私はかつて人の話に聞いて勝手に想像していた谷中村というもの とは、あまりの相違にすべての自分の想像から持っている期待の取捨に迷いながら、やっとこの土手まで来たのであった。先刻道を聞いた時、橋番がいっていた ように、なるほど廃村谷中の跡はここから一と目に見渡せるのであった。しかも見渡した景色は、瞬間に、私の及びもつかない想像をも期待をも押し退けた。そ れはここまでのみちすがらにさんざん私を悩ました、あの人気のない、落莫とした、取りつき端のないような景色よりも、更に思いがけないものだった。
「まあひどい!」

伊藤野枝 転機

「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」
「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」
 男はひどく冷淡な調子で云った。
「残っている人は実際のところどのくらいなものです?」
 山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。
「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Sの家がまあ土手から一番近い所に あるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて、飛び飛びになっています。Sの母親と、私の母親が姉妹で、あの家とは極く近い親戚で――え、私 ももとはやはり谷中の者です。Sも、どうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走りまわってばかりいて困ります。」
 彼はそんなこともいった。若いSは谷中のために一生を捧げたT翁の亡き後は、その後継者のような位置になって、残留民の代表者になって、いろいろな交渉の任にあたっていた。Sにはそれは本当に一生懸命な仕事でなくてはならなかった。
「堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。」
「なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Sの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。」