田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

 土手の蔭は、教えられたとおりに河になっていて舟橋が架けられてあった。橋の手前に壊れかかったというよりは拾い集めた板切れで建てたような小屋がある。腐りかけたような蜜柑や、みじめな駄菓子などを並べたその店先きで、私はまた尋ねた。
 小屋の中には、七十にあまるかと思われるような、目も、鼻も、口も、その夥だしい皺の中に畳み込まれてしまったような、ひからびた老婆と、四十位の小造 りな、貧しい姿をした女と二人いた。私はかねがね谷中の居残った人達が、だんだんに生計に苦しめられて、手当り次第な仕事につかまって暮らしているという ようなことも聞いていたので、この二人がひょっとしてそうなのではあるまいかという想像と一緒に、何となくその襤褸にくるまって、煮しめたような手拭いに 頭を包んだ二人の姿を哀れに見ながら、それならば、多分尋ねる道筋は、親切に教えて貰えるものだと期待した。しかし、谷中村と聞くと、二人は顔見合わせた が、思いがけない嘲りを含んだ態度を見せて、私の問に答えた。
「谷中村かね、はあ、あるにはあるけれど、沼の中だでね、道も何にもねえし――いる人も、いくらもねいだよ――」
 あんな沼の中にとても行けるものかというように、てんから道など教えそうにもない。それでも最後に橋番に聞けという。舟橋を渡るとすぐ番小屋がある。三四人の男が呑気な顔をして往来する人の橋銭をとっている。私は橋銭を払ってからまた聞いた。

伊藤野枝 転機

 その思いがけない景色を前にして、私はこれが長い間――本当にそれは長い間だった――一度聞いてからは、ついに忘れることの出来なかった村の跡なのだろ うと思った。窪地といってもこの新しい堤防さえのぞいてしまえば、この堤防の外の土地とは何の高低もない普通の平地だということや、窪地の中を真っすぐに 一と筋向うの土手まで続いている広い路も、この堤防で遮られた、先刻の町の通りに続いていたものだということを考えあわせて見れば、どうもそうらしく思わ れもする。けれど、堤防の中の窪地に今もなお居残って住んでいるという、今私の尋ねていこうという人達は、この広い窪地の何処に住んでいるのであろう?  道は一と筋あるにはあるが、彼の土手の外に人家があるとは、聞いた話を信用すれば少しおかしい。
「ちょっとお伺いいたしますが、谷中村へ行くのには、この道をゆくのでしょうか?」
 ちょうどその窪地の中の道から、土手に上がってきた男を待って、私は聞いた。その男もまた、不思議そうに、私達を見上げ見下ろしながら、谷中村はもう十 年も前から廃止になって沼になっているが、残っている家が少々はない事もないけれど、とても行ったところで分るまいといいながら、それでも、そこはこの土 手のもう一つ向うになるのだから、土手の蔭の橋の傍で聞けと教えてくれた。けれど彼はなお、私達に、とても行ったところで仕方がないというような口吻で、 残った人達を尋ねる事の困難を説明した。
 窪地の中の道の左右は、まばらに葦が生えてはいるが、それが普通の耕地であった事は一と目に肯かれる。細い畔道や、田の間の小溝が、ありしままの姿で残っている。しかし、この新らしい高い堤防が役立つ時には、それも新らしい一大貯水池の[#「貯水池の」は底本では「貯水地の」]水底に葬り去られてしまうのであろう。人々はそんなかかわりのないことは考えてもみないというような顔をして、坦々と踏みならされた道を歩いてゆく。

伊藤野枝 転機

+目次

 


 不案内な道を教えられるままに歩いて古河の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている道ばたで、子供を遊ばせている老婆に私はまた尋ねた。老婆はけげんな顔をして私達二人の容姿に目を留めながら、念を押すように、今私のいった谷中村という行く先きを聞き返しておいて、
「何んでも、その堤防を越して、河を渡ってゆくんだとかいいますけれどねえ。私もよくは知りませんから。」
 何んだか、はっきりしない答えに、当惑している私達が気の毒になったのか、老婆は自分で他の人にも聞いてくれたが、やはり答えは同じだった。しかし、と に角その堤防を越して行くのだということだけは分ったので、私達はその町の人家の屋根よりは遙かに高いくらいな堤防に上がった。
 やっと、のぼった私達の前に展かれた景色は、何という思いがけないものだったろう! 今、私達が立っている堤防は黄褐色の単調な色をもって、右へ左へと 遠く延びていって、遂には何処まで延びているのか見定めもつかない。しかも堤防外のすべてのものは、それによって遮りつくされてただようように一二ヶ所ず つ木の茂みが、低く暗緑の頭を出しているばかりである。堤防の内は一面に黄色な枯れ葦に領された広大な窪地であった。私達の正面は五六町を隔てた処に横た わっている古い堤防に遮られているが、右手の方に拡がったその窪地の面積は、数理的観念には極めて遠い私の頭では、ちょっとどのくらいというような見当は つかないけれど、何しろそれは驚くべき広大な地域を占めていた。こうして高い堤防の上に立つと、広い眼界がただもう一面に黄色なその窪地と空だけでいっぱ いになっている。

芥川龍之介 一番気乗のする時

 僕は一体冬はすきだから十一月十二月皆好きだ。好きといふのは、東京にゐると十二月頃の自然もいいし、また町の容子ようすもいい。自然の方のいいといふのは、かういふ風に僕は郊外に住んでゐるから余計よけいそんな感じがするのだが、十一月のすゑから十二月の初めにかけて、夜おそく外からなんど帰つて来ると、かうなんともしれぬ物のにほひが立ちめてゐる。それは落葉おちばのにほひだか、霧のにほひだか、花の枯れるにほひだか、果実のくされるにほひだか、何んだかわからないが、まあいいにほひがするのだ。そして寝て起きるといてゐる。葉が落ち散つたあとの木の間がほがらかにあかるくなつてゐる。それに此処ここらは百舌鳥もずがくる。ひよどりがくる。たまに鶺鴒せきれいがくることもある。田端たばた音無川おとなしがはのあたりには冬になると何時いつ鶺鴒せきれいが来てゐる。それがこの庭までやつてくるのだ。夏のやうに白鷺しらさぎが空をかすめて飛ばないのは物足ものたりないけれども、それだけのつぐなひは十分あるやうな気がする。
 町はだんだん暮近くなつてくると何処どこか物々しくなつてくる。ざわめいてくる。あすこが一寸ちよつと愉快だ。ざわめいて来て愉快になるといふことは、酸漿提灯ほほづきぢやうちんがついてゐたり楽隊がゐたりするのもにぎやかでいいけれども、僕には、それが賑かなだけにさういふ時は暗い寂しい町が余計よけい眼につくのがいい。たとへば須田町すだちやうの通りが非常に賑かだけれど、一寸ちよつと梶町かぢちやう青物市場あをものいちばの方へまがるとあすこは暗くて静かだ。さういふ処を何かの拍子ひやうしで歩いてゐると、「鍋焼なべやきだとか「火事」だとかいふ俳句の季題を思ひ出す。ことにくおしつまつて、もう門松かどまつがたつてゐるさういふ町を歩いてゐると、ちよつと久保田万太郎くぼたまんたらう君の小説のなかを歩いてゐるやうな気持でいい気持だ。

 十二月は僕は何時いつでも東京にゐて、そのほかの場処といつたら京都きやうととか奈良ならとかいふはなはだ平凡な処しかしらないんだけども、京都へ初めてつた時は十二月で、その時分は、七条しちでうの停車場も今より小さかつたし、烏丸からすまるとほりだの四条しでうとほりだのがずつと今よりせまかつた。でさういふ古ぼけた京都を知つてゐるだけだが、その古ぼけた京都に滞在してゐるあひだに二三度時雨しぐれにあつたことをおぼえてゐる。こと下賀茂しもかもただすの森であつた時雨しぐれは、丁度ちやうど朝焼がしてゐるとすぐに時雨れて来たんで、甚だ風流な気がしたのを覚えてゐる。時雨といへば矢張やはり其時、奈良の春日かすがやしろで時雨にあひ、その時雨のれるのをまつあひだ神楽かぐらをあげたことがあつた。それは古風な大和琴やまとごとだのさうだのといふ楽器を鳴らして、はかまをはいた小さな――非常に小さな――巫女みこが舞ふのが、矢張やはり優美だつたといふ記憶がのこつてゐる。勿論其時分は春日かすがやしろも今のやうに修覆しうふくが出来なかつたし、全体がもつと古ぼけてきたなかつたから、それだけよかつたといふわけだ。さういふ京都とか奈良とかいふ処は度々ゆくが、冬といふとどうもその最初の時の記憶が一番あざやかなやうな気がする。
 それから最近には鎌倉かまくらすまつて横須賀よこすかの学校へかよふやうになつたから、東京以外の十二月にも親しむことが出来たといふわけだ。その時分の鎌倉は避暑客のやうな種類の人間が少いだけでも非常にいい。ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の外套ぐわいたうの襟へおとがひうづめても埋めえはしないやうな気がする。東清とうしん鉄道あたりの従業員は、日本人と露西亜ロシア人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を濶歩くわつぽしてゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。

 もつとも小説を書くうへに於ては、むしろ夏よりは十一月十二月もつと寒くなつても冬の方がいいやうだ。また書く上ばかりでなく、書くまでの段取を火鉢にあたりながら漫然と考へてゐるには今頃いまごろが一番いいやうだ。新年号の諸雑誌の原稿は大抵たいてい十一月一杯いつぱいまたは十二月のはじめへかかる。さういふものを書いてゐる時は、他の人は寒いだらうとかなんとかいつて気にしてくれるけれども、書き出してあぶらが乗れば煙草をむほかはほとんど火鉢なんぞを忘れてしまふ。それにその時分はふすまだの障子しやうじだのがたて切つてあるものだから、自分の思想や情緒とかいふものが、部屋の中から遁出にげだしてゆかないやうな安心した処があつてよく書ける。もつともよく書けるといつても、それは必ずしも作の出来栄えには比例しないのだから、勿論新年号の小説は何時いつも傑作が出来るといふわけにはゆかない。

(大正六年)

芥川龍之介 イズムと云ふ語の意味次第

 イズムを持つ必要があるかどうか。かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、わたし生憎あいにくこの問題に大分だいぶ関係のありさうな岩野泡鳴いはのはうめい氏の論文なるものを読んでゐません。だからそれに対する私の答も、幾分新潮しんてう記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。
 実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでもげられさうです。又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。
 それを差当さしあたり、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そんな必要はありません。と云ふよりもむしろそれは出来ない相談だと思ひます。元来さう云ふイズムなるものは、便宜上のちになつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それでおほはれるわけはないでせう。全部がおほはれなければそれを肩書にする必要はありますまい。(もつともそれが全部でなくとも或いちじるしい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムの貼札はりふだをつけられたのを許容きよようする場合はありませう。又許容しない事がよろしくない場合もありませう。これは何時いつ生田長江いくたちやうかう氏が、論じた事があつたと思ひますが。)
 又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。
 又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。
 唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共便宜べんぎと云ふ意味を加へれば、まるで違つた事が云はれるかも知れません。それなら私は口をつぐんだ方がいいでせう。一つにはイズムの提唱に無経験な私は、さう云ふ便宜をあきらかにしてゐませんから。

(大正七年五月)

芥川龍之介 遺書

 僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九 歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に 甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と恋愛関係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後 に新たに情人をつくつたことはなかつた。これも道徳的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を打算した為である。(しかし恋愛を感じなか つた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛であ る。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つた ことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうす ることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども 今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を読み、彼も亦僕のやうに情人に※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)を 書いてゐるのを知り、苦笑したことを覚えてゐる。)その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛し ても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

       わが子等に
 一人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。
 二従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。
 三小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし。
 四若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。
 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。
 六汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。
 七汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。
 八汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず)


       芥川文子あて
 追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の条件の実行せられたる後は火中することを忘るべからず。
 再追記 僕は万一新潮社より抗議の出づることを惧るる為に別紙に4を認めて同封せんとす。

 4 僕の作品の出版権は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に譲与すべし。(僕の新潮社に対する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先 生と出版書肆を同じうせんことを希望す。但し装幀は小穴隆一氏を煩はすことを条件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何 なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

          ○
 一、生かす工夫絶対に無用。
 二、絶命後小穴君に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并せて世間を騒がす惧れあり。
 三、絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。
 四、下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は遺書(菊池宛)を菊池に与ふべし。然らざれば焼き棄てよ。他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、出来るだけ遺志に従ふやうにせよ。
 五、遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。又義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。
 六、この遺書は直ちに焼棄せよ。

          ○
 一他に貸せしもの、――鶴田君にアラビア夜話十二巻あり。
 二他より借りしもの、――東洋文庫より Formosa(台湾)一冊。勝峯晋風氏より「潮音」数冊。下島先生より印数顆、室生君より印二顆。(印は所持者に見て貰ふべし。)
 三沖本君に印譜を作りて貰ふべし。わが追善などに句集を加へて配るもよし。
 四石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。
 五あらゆる人々の赦さんことを請ひ、あらゆる人々を赦さんとするわが心中を忘るる勿れ。

芥川龍之介 飯田蛇笏

 或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平がしきりに 蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だっ たから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思 わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
 丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評 価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにと も思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
 その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を 具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけ り」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
 当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木はかさず「君といえどついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処か の句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。 それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云う ものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われ た蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
 爾来更に何年かをけみした今日、僕は卒然 飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を 帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。

春雨の中や雪おく甲斐の山

 これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟 りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住す る所はないと見える。

おらが家の花も咲いたる番茶かな

 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。