田村昇士のブログ

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芥川龍之介 魚河岸

 去年の春の、――と云ってもまだ風の寒い、月のえたよるの九時ごろ、保吉やすきちは三人の友だちと、魚河岸うおがしの往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人露柴ろさい、洋画家の風中ふうちゅう蒔画師まきえし如丹じょたん、――三人とも本名ほんみょうあかさないが、その道では知られたうできである。殊に露柴ろさいは年かさでもあり、新傾向の俳人としては、つとに名をせた男だった。
 我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸げこ、如丹は名代なだい酒豪しゅごうだったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴はどうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、なまぐさい月明りの吹かれる通りを、日本橋にほんばしの方へ歩いて行った。
 露柴はすい江戸えどだった。曾祖父そうそふ蜀山しょくさん文晁ぶんちょうと交遊の厚かった人である。家も河岸かし丸清まるせいと云えば、あの界隈かいわいでは知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷さんや露路ろじの奥に、句と書と篆刻てんこくとを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質したまちかたぎよりは伝法でんぼうな、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸のまぐろすしと、一味相通ずる何物かがあった。………