田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

 と思い出したように教えてくれる。もとは、この土地に住んでいた村民の一人だというその男は、この情ないような居村の跡に対しても、別段に何の感じもそ そられないような無神経な顔をして、ずっと前にこの土地の問題が世間にかれこれいわれた時のことなどをポツリポツリ話しているのであった。そして、それも かつての自分達のことを話しているというよりは、まるで他人の身の上の事でも話しているような無関心な態度を、私は不思議な気持で見ていた。彼は惨苦のう ちにこの土地に未練をもって、今もなお池の中に住んでいる少数の人達に対しても、冷淡な侮蔑を躊躇なく現わすのであった。
「ずっと向うにちょっとした木立がありますね。ええずっと遠くの方に、今煙が見えるでしょう? あの少し左へよった処に、やはり木の茂った処が見えますね、あれがSの家です。まだ大分ありますよ。」
 指さされた遙かな方に、ようやくのことで小さな木立が見出された。細い貧し気な煙も見える。私と山岡が、今尋ねて行こうとしている人達の住居はそこなの だった。連れの男は折々立ち止まっては、おくれる私達を待つようにして、一言二言話しかけてはまた先にずんずん歩いていく。道に添うて、先刻はただ一と目 に広く大きいままに見た景色の中につつまれた、小さな一つ一つのみじめな景色が順々にむき出しにされて私達を迎える。いつか土手に添うた畑地はなくなっ て、土手のすぐ下の沿岸の、疎らになった葦間に、みすぼらしい小舟がつなぎもせずに乗り捨ててあったり、破れた舟が置きざりにされてあると見てゆくうち に、人の背丈の半ばにも及ばないような低い、竹とむしろでようやくに小屋の形をしたものが、腐れかかって残っていたりする、長い堤防は人気のない沼の中を うねり曲って、どこまでも続いている。
 山岡は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人のだれかれがこの村のために働いた話をしながら歩いていく。