田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

 彼はさも、何でもないことを大げさに信じている私達を笑うように、また私達をそう信じさせる村民に反感をもってでもいるように、苦い顔をしていい切ると、またスタスタ先になって歩き出した。
 いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防に私達は近づいていた。
「あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。」
「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。」
 二人はやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少しおくれて歩きながら、そんな話をした。
「これがずっと元の谷中です。」
 土手に上がった時、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指していった。


 それは何という荒涼とした景色だったろう! 遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、 ただ一面の茫漠とした沼地であった。重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆わ れて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。右を向いても左を向いても、同じような葦の黄褐色が目も遙かに続いているばかり、うねり曲って左右に続 く堤防の上の道さえ、どこまで延びているのか、遂にはやはり同じ黄褐色の中に見分けもつかなくなってしまう。振り返れば来る来る歩いて来た道も、堤から一 二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間にかくされている。その道に沿うてただ一叢二叢僅かに聳えた木立が、そこのみが人里近いこと を思わす[#「思わす」は底本では「思わず」]だけで、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な心持を誘われるのであった。
 古河の町をはずれて、高い堤防の上から谷中村かと思われる沼地の中の道に踏み入ろうとして私はかつて人の話に聞いて勝手に想像していた谷中村というもの とは、あまりの相違にすべての自分の想像から持っている期待の取捨に迷いながら、やっとこの土手まで来たのであった。先刻道を聞いた時、橋番がいっていた ように、なるほど廃村谷中の跡はここから一と目に見渡せるのであった。しかも見渡した景色は、瞬間に、私の及びもつかない想像をも期待をも押し退けた。そ れはここまでのみちすがらにさんざん私を悩ました、あの人気のない、落莫とした、取りつき端のないような景色よりも、更に思いがけないものだった。
「まあひどい!」