田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」
「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」
 男はひどく冷淡な調子で云った。
「残っている人は実際のところどのくらいなものです?」
 山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。
「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Sの家がまあ土手から一番近い所に あるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて、飛び飛びになっています。Sの母親と、私の母親が姉妹で、あの家とは極く近い親戚で――え、私 ももとはやはり谷中の者です。Sも、どうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走りまわってばかりいて困ります。」
 彼はそんなこともいった。若いSは谷中のために一生を捧げたT翁の亡き後は、その後継者のような位置になって、残留民の代表者になって、いろいろな交渉の任にあたっていた。Sにはそれは本当に一生懸命な仕事でなくてはならなかった。
「堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。」
「なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Sの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。」