田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

 ようやく、向うから来かかる人がある。待ちかまえていたように、私達はその人を捉えた。
「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、皆飛び飛びに離れていますからな、何という人をおたずねです?」
「Sという人ですが――」
「Sさん、ははあ、どうも私には分りませんが――」
 その人は少し考えてからいった。
「家が分らないと、行けない処ですからな。何しろその、皆ひとかたまりになっていませんから――」
 意外な事を聞いて当惑した。しかしとにかく、人家のある所まででも、行くだけ行ってみたい。
「まだ、余程ありましょうか?」
「さよう、大分ありますな。」
 ちょうどその時私達の後から来かかった男に、その人はいきなり声をかけた。
「この方達が谷中へお出でなさるそうだがお前さんは知りませんか。」
 その男はやはり、今までと同じように妙な顔付きをして、私達を見た後にいった。
「谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです?」
「Sという人ですが――」
「ああ、そうですか、Sなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。」
 前の男にお礼をいって、私達は、その男と一緒になって歩き出した。男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏をきて、股引わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。
「谷中へは、何御用でお出でです?」