田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

「谷中村ですか、ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向うが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね。」
 一人の男がそういって教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるようにいった。
「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ。」
 彼等は一度に顔見合わせて笑った。多分、私達二人が、気紛れな散歩にでも来たものと思ったのであろう。笑声を後にして歩き出した時、私は、この寒い日 に、わざわざこうして用もない不案内な廃村を訪ねてゆく自分の酔狂な企てを振り返ってみると、今の橋番の言葉が、何か皮肉に聞こえて、苦笑しないではいら れなかった。
 一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。畑のまわりには低い雑 木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かなけはいを感ずる。 片側は、すぐ道に添うて河の流れになっているが、河の向う岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。その葦原もまた何処まで拡がっているのか解 らない。しかし、左側の生々した畑地に慰さめられて、もうさはど遠くもあるまいと思いながら歩いていった。
「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?」
「変だねえ、もう大分来たんだが。」
「先刻の橋番の男は堤防にのぼるとすっかり見晴せますなんていってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?」
 私と山岡がそういって立ち止まった時には、小高くなった畑地は何処か後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。行く手も、両側も、後も、森として人の気配らしいものもしない。
「橋の処からここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、――まあもう少し行ってみよう。」
 山岡がそういって歩き出した。私は、通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。