芥川龍之介 案頭の書
「かのもの不敵のものなれば(中略)そのところををしへたまへ。のぞみをかなへまゐらせんと、あとにつきていそぎゆく。ほどなく兵右衛門が宅になれば、女の指図にまかせ、何かはしらず守り札ひきまくり捨てければ、女はよろこび戸をひらき、家へ入るよと見えしが臥してゐたる女房ののどにくひつき、難なくいのちをとりて、おもてをさして逃げ出でける。(中略)
「女走りいでゝ(中略)此上ながらとてものことにいづくへなりと連れてゆきたまはれと、背につきはなれぬうち、家内にわかにさわぎ立ち、やれ何者のしわざなるぞ、提灯松明と、 上を下へとかへすにぞ、以前の男も心ならず足にまかせて逃げゆきしが、思はずもわが家にかへり、(中略)ひとり住みの身なれば、誰れとがむるものもなけれ ど、幽霊を連れかへりそゞろに気味わるく、『のふ/\のぞみはかなひし上は、いづかたへもゆきたまへ、(中略)』と、心のうちに念仏をとなへけるこそをか しけれ。
「幽霊もしばしはさしうつむきてゐたりしが、(中略)怨めしと思ふかたきをかみころし、一念散ずるときは泉下へもゆくべきに、いまだ此土にとどまることのふしんさよと心をつけて見るに、さして常にかはることもなし。(中略)それより一つ二つとはなし合ふに、いよ/\幽霊にあらざるにきはまりける。(中略)男も定まる妻もなければと、つひ談合なりてそこを立ちのき、大阪にしるべありてひきこしける。兵右衛門がかたにはかゝることゝは露しらず、本妻と下女が修羅の苦患をたすけんと御出家がたの金儲けとなりけるとなり。」