田村昇士のブログ

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2014-01-18から1日間の記事一覧

有島武郎 親子

二時を過ぎて三時に近いと思われるころ、父の寝床のほうからかすかな鼾が漏れ始めた。彼はそれを聞きすましてそっと厠に立った。縁板が蹠(あしうら)に吸いつくかと思われるように寒い晩になっていた。高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空…

有島武郎 親子

今夜は何事も言わないほうがいい、そうしまいに彼は思い定めた。自分では気づかないでいるにしても、実際はかなり疲れているに違いない父の肉体のことも考えた。 「もうお休みになりませんか。矢部氏も明日は早くここに着くことになっていますし」 それが父…

有島武郎 親子

父は黙って考えごとでもしているのか、敷島を続けざまにふかして、膝の上に落とした灰にも気づかないでいた。彼はしょうことなしに監督の持って来た東京 新聞の地方版をいじくりまわしていた。北海道の記事を除いたすべては一つ残らず青森までの汽車の中で読…

有島武郎 親子

「お前は夕飯はどうした」 そう突然父が尋ねた。監督はいつものとおり無表情に見える声で、 「いえなに……」 と曖昧(あいまい)に答えた。父は蒲団(ふとん)の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離し…

有島武郎 親子

監督は一抱(かか)えもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音(あしおと)がだんだん…

有島武郎 親子

事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀(おかみ)さんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上…

有島武郎 親子

一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓(ふもと)にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々…

有島武郎 親子

「おい早田」 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。 「ここには何戸はいっているのか」 「崕地(がけち)に残してある防風林のまばらになったのは盗伐ではないか」 「鉄道と換え地をした…

有島武郎 親子

五、六丁線路を伝って、ちょっとした切崕(きりざし)を上がるとそこは農場の構えの中になっていた。まだ収穫を終わらない大豆畑すらも、枯れた株だけが立ち続いていた。斑(まだ)ら生(ば)えのしたかたくなな雑草の見える場所を除いては、紫色に黒ずんで…

有島武郎 親子

彼は、秋になり切った空の様子をガラス窓越しに眺めていた。 みずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓(りんかく)を描いて白く光るあの夏の雲の姿はもう見られなかった。薄濁った形のくずれたのが、狂うようにささくれだって、澄み切った青空のここかしこに…