田村昇士のブログ

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伊藤野枝 転機

 と思い出したように教えてくれる。もとは、この土地に住んでいた村民の一人だというその男は、この情ないような居村の跡に対しても、別段に何の感じもそ そられないような無神経な顔をして、ずっと前にこの土地の問題が世間にかれこれいわれた時のことなどをポツリポツリ話しているのであった。そして、それも かつての自分達のことを話しているというよりは、まるで他人の身の上の事でも話しているような無関心な態度を、私は不思議な気持で見ていた。彼は惨苦のう ちにこの土地に未練をもって、今もなお池の中に住んでいる少数の人達に対しても、冷淡な侮蔑を躊躇なく現わすのであった。
「ずっと向うにちょっとした木立がありますね。ええずっと遠くの方に、今煙が見えるでしょう? あの少し左へよった処に、やはり木の茂った処が見えますね、あれがSの家です。まだ大分ありますよ。」
 指さされた遙かな方に、ようやくのことで小さな木立が見出された。細い貧し気な煙も見える。私と山岡が、今尋ねて行こうとしている人達の住居はそこなの だった。連れの男は折々立ち止まっては、おくれる私達を待つようにして、一言二言話しかけてはまた先にずんずん歩いていく。道に添うて、先刻はただ一と目 に広く大きいままに見た景色の中につつまれた、小さな一つ一つのみじめな景色が順々にむき出しにされて私達を迎える。いつか土手に添うた畑地はなくなっ て、土手のすぐ下の沿岸の、疎らになった葦間に、みすぼらしい小舟がつなぎもせずに乗り捨ててあったり、破れた舟が置きざりにされてあると見てゆくうち に、人の背丈の半ばにも及ばないような低い、竹とむしろでようやくに小屋の形をしたものが、腐れかかって残っていたりする、長い堤防は人気のない沼の中を うねり曲って、どこまでも続いている。
 山岡は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人のだれかれがこの村のために働いた話をしながら歩いていく。

伊藤野枝 転機

「本当にね。ずいぶんひどい荒れ方だわ。こんなにもなるものですかねえ。」
「ああ、なるだろうね、もうずいぶん長い間の事だから。しかし、こんなにひどくなっていようとは思わなかったね。なんでも、ここは実にいい土地だったんだ そうだよ。田でも畑でも肥料などは施らなくても、普通より多く収穫があるくらいだった、というからね。ごらん、そら、そこらの土を見たって、真黒ないい土 らしいじゃないか。」
「そういえばそうね。」
 私は土手を匐うように低く生えた笹の葉の緑色を珍らしく見ながらそういった。この先の見透しもつかないような広い土地――今はこうして枯れ葦に領された この広い土地――に、かつてはどれだけの生きものがはぐくまれたであろう。人も草木も鳥も虫もすべての者が。だが、今はそれ等のすべてが奪われてしまった のだ。そして土地は衰え果ててもとのままに横たわっている。
「なぜこのように広い、その豊饒な土地をこんなに惨めに殺したものだろう?」
 もとのままの土地ならば、この広い土地いっぱいに、春が来れば菜の花が咲きこぼれるのであろう。麦も青く芽ぐむに相違ない。秋になれば稲の穂が豊かな実 りを見せるに相違ない。そうしてすべての生きものは、しあわせな朝夕をこの土地で送れるのだ。それだのに、何故、その豊かな土地を、わざわざ多くの金をか けて、人手を借りて、こんな廃地にしなければならなかったのだろう?
 それは、私がこの土地のことについての話を聞いた最初に持った疑問であった。そして、私はその疑問に対する多くの答を聞いている。しかし現在この広い土地を見ては、やはり、そのような答えよりも最初の疑問がまず頭をもたげ出すのであった。
 歩いていく土手の道の内側の処々に、土手と並んで僅かな畑がある。先に歩いていく男は振り返りながら、
「こういう処はもと人家のあった跡なのですよ。」

伊藤野枝 転機

 そういったなりで、後の言葉がつづかなかった。ひどい! という言葉も、私が今一度に感じた複雑な感じのほんの隅っこの切れっぱしにすぎないとしか思え ないような、不満な思いがするのであった。冬ではあるが、それでも、こうして立っている足元から前に拡がったこの広大な地に、目の届く処にせめて、一本の 生々とした木なり草なり生えてでもいることか、ただもう生気を失って風にもまれる枯れ葦ばかり、虫一匹生きていそうなけはいさえもない。ましてこの沼地の どこに人が住んでいるのだなどと思えよう?
 案内役になった連れの男はさっさと歩いていく。どこをどう行くのかも分らずに、ついていくのに不安を感じては私は聞いた。
「谷中の人達の住んでいる処まではまだよほどあるのですか?」
「そうですね、この土手をずっとゆくのです。一里か一里半もありますかね。」
 道は幅も広く平らだった。しかし、この道をもう一里半も歩かなければならないということは私にはかなり思いがけもないつらいことだった。ことに帰りもあ るのに、この人里離れた処では乗物などの便宜のないというわかり切ったことがむやみに心細くなりだした。それでもこの雪もよいの寒空に自分から進んで、山 岡までも引っぱって出かけて来ておいて、まさかそのようなことまでも、口へ出してはいいかねて黙って歩いた。
「こうして見ると広い土地だね、荒れていることもずいぶん荒れてるけれど、これで人が住んでいた村のあとだとはちょっと思えないね。」

伊藤野枝 転機

 彼はさも、何でもないことを大げさに信じている私達を笑うように、また私達をそう信じさせる村民に反感をもってでもいるように、苦い顔をしていい切ると、またスタスタ先になって歩き出した。
 いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防に私達は近づいていた。
「あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。」
「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。」
 二人はやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少しおくれて歩きながら、そんな話をした。
「これがずっと元の谷中です。」
 土手に上がった時、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指していった。


 それは何という荒涼とした景色だったろう! 遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、 ただ一面の茫漠とした沼地であった。重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆わ れて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。右を向いても左を向いても、同じような葦の黄褐色が目も遙かに続いているばかり、うねり曲って左右に続 く堤防の上の道さえ、どこまで延びているのか、遂にはやはり同じ黄褐色の中に見分けもつかなくなってしまう。振り返れば来る来る歩いて来た道も、堤から一 二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間にかくされている。その道に沿うてただ一叢二叢僅かに聳えた木立が、そこのみが人里近いこと を思わす[#「思わす」は底本では「思わず」]だけで、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な心持を誘われるのであった。
 古河の町をはずれて、高い堤防の上から谷中村かと思われる沼地の中の道に踏み入ろうとして私はかつて人の話に聞いて勝手に想像していた谷中村というもの とは、あまりの相違にすべての自分の想像から持っている期待の取捨に迷いながら、やっとこの土手まで来たのであった。先刻道を聞いた時、橋番がいっていた ように、なるほど廃村谷中の跡はここから一と目に見渡せるのであった。しかも見渡した景色は、瞬間に、私の及びもつかない想像をも期待をも押し退けた。そ れはここまでのみちすがらにさんざん私を悩ました、あの人気のない、落莫とした、取りつき端のないような景色よりも、更に思いがけないものだった。
「まあひどい!」

伊藤野枝 転機

「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」
「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」
 男はひどく冷淡な調子で云った。
「残っている人は実際のところどのくらいなものです?」
 山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。
「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Sの家がまあ土手から一番近い所に あるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて、飛び飛びになっています。Sの母親と、私の母親が姉妹で、あの家とは極く近い親戚で――え、私 ももとはやはり谷中の者です。Sも、どうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走りまわってばかりいて困ります。」
 彼はそんなこともいった。若いSは谷中のために一生を捧げたT翁の亡き後は、その後継者のような位置になって、残留民の代表者になって、いろいろな交渉の任にあたっていた。Sにはそれは本当に一生懸命な仕事でなくてはならなかった。
「堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。」
「なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Sの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。」

伊藤野枝 転機

 ようやく、向うから来かかる人がある。待ちかまえていたように、私達はその人を捉えた。
「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、皆飛び飛びに離れていますからな、何という人をおたずねです?」
「Sという人ですが――」
「Sさん、ははあ、どうも私には分りませんが――」
 その人は少し考えてからいった。
「家が分らないと、行けない処ですからな。何しろその、皆ひとかたまりになっていませんから――」
 意外な事を聞いて当惑した。しかしとにかく、人家のある所まででも、行くだけ行ってみたい。
「まだ、余程ありましょうか?」
「さよう、大分ありますな。」
 ちょうどその時私達の後から来かかった男に、その人はいきなり声をかけた。
「この方達が谷中へお出でなさるそうだがお前さんは知りませんか。」
 その男はやはり、今までと同じように妙な顔付きをして、私達を見た後にいった。
「谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです?」
「Sという人ですが――」
「ああ、そうですか、Sなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。」
 前の男にお礼をいって、私達は、その男と一緒になって歩き出した。男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏をきて、股引わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。
「谷中へは、何御用でお出でです?」

伊藤野枝 転機

「谷中村ですか、ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向うが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね。」
 一人の男がそういって教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるようにいった。
「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ。」
 彼等は一度に顔見合わせて笑った。多分、私達二人が、気紛れな散歩にでも来たものと思ったのであろう。笑声を後にして歩き出した時、私は、この寒い日 に、わざわざこうして用もない不案内な廃村を訪ねてゆく自分の酔狂な企てを振り返ってみると、今の橋番の言葉が、何か皮肉に聞こえて、苦笑しないではいら れなかった。
 一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。畑のまわりには低い雑 木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かなけはいを感ずる。 片側は、すぐ道に添うて河の流れになっているが、河の向う岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。その葦原もまた何処まで拡がっているのか解 らない。しかし、左側の生々した畑地に慰さめられて、もうさはど遠くもあるまいと思いながら歩いていった。
「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?」
「変だねえ、もう大分来たんだが。」
「先刻の橋番の男は堤防にのぼるとすっかり見晴せますなんていってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?」
 私と山岡がそういって立ち止まった時には、小高くなった畑地は何処か後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。行く手も、両側も、後も、森として人の気配らしいものもしない。
「橋の処からここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、――まあもう少し行ってみよう。」
 山岡がそういって歩き出した。私は、通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。